脳内たおや化

真面目な話も、しょうもない話もかきます。脳内のたおや化を目指します。

コウノドリ

来年度の「授かり」志望者の募集締め切りが、とうとう一週間後に迫った。期日から逆算して準備することも、大事な話を切り出すことも苦手な私らしいタイムスケジュールだろう。こうなることはわかっていた。

 

圭人は未だに「授かり」の件に関して自分から話そうとしない。彼もまた、私と同じく切り出し下手な性格だ。きっと私が痺れを切らして話を切り出してくれるだろうと甘えているのだろう。こういう大事な話をしなければならないとき、いつも切り出すのは私の方だった。今回こそは、私からは話すまいと思っていたけど、降参するしかないようだ。

 

夕食中、テレビを観ながらたわいもない話題を私に投げかける圭人に、軽いトーンで切り出す。大事なことを重い空気で話しても、大抵いい結果にはならない。

 

「そういえば、コウノドリの来年度の締め切り、来週末みたいだけど、どうしよっか。」

どうせ彼は私がそろそろ切り出すとわかっていたんだろう。わかっていながらも、彼は唐突だねと言わんばかりのリアクションを見せる。深刻な雰囲気をつくりたくない彼の常套手段だ。その気遣いがうっとうしいと感じることまあるが、しばしば助けられているのもまた事実だ。

 

「そうだねぇ。どうしよっか。応募するだけしてみる?」

「そうね。私は来月で仕事ひと段落しそうだから、去年より時間の融通は利くと思うけど、圭人は今年と来年どんな感じ?」

「来年はまだちょっと読めないけど、今年授かり予定の先輩も多いから、それなりに理解してもらえると思う。」

「なるほど、それなら応募だけとりあえずしとこうか。明日にでも役所行く?」

「うん、そうしようか。書類印刷しとくね。」

「うん、ありがとう。」

 

あっさりとしたやりとりが、私たち二人の今後の舵を切る。

 

収入、年齢、経歴、健康状態は、親として問題ないはずだ。あとはどれだけ筆記と面接の対策に時間を割けるか。高くつくが、予備校に行くべきなんだろうか。周りの友人は、ほとんどが予備校で対策をしたと言っていた。でも、そこまで本気の姿勢を見せたら、圭人は怖気づくのではないだろうか。

 

私は、子どもが欲しいと強く思ったことはない。中学で、赤ちゃんをどのようにして授かるかを学んだとき、あまりのシステマティックさにショックを受けた。それ以来、親になることは極めて事務的なものなのだと考えるようになった。

 

父と母は、私が幼い頃、「コウノドリさんが梨沙を運んできてくれたんだよ。」と話していた。そのときの笑顔は、子どもを授かった幸福感というよりは、ゲームをクリアしたときの達成感に似た喜びによるものだったのだろうと後から思った。コウノドリによる厳しい書類審査、筆記、面接試験を突破した者のみに与えられる「親」という称号には、自分のこれまでの人生全てを肯定してくれる力がある。私は、その称号にも、子どもという存在そのものにも、まだ魅力を感じていない。それでも「授かり」に応募してみようと思ってしまうのは、なぜなのだろう。私もどこかで、自分の人生を丸ごと肯定されたいと願っているのだろうか。そんなはしたない欲望を満たすための道具として子どもを利用していいのだろうか。

 

圭人はどう考えているんだろう。何をどう聞いて、何をどう伝えればいいのだろう。