たおや化

臭いです。真面目な話も、しょうもない話もかきます。たおや化を目指します。

相対

人は、相対的にしか幸せを感じられない、

という言説には一定の説得力がある。

 

この、「相対的」が意味するのは、

「他者との比較」であると解釈するのが

一般的なのではないだろうか。

 

他者との比較して、自分の状況を鑑みて

初めて、自分が満たされているかどうかを

判断できる。

 

「あの人よりはマシ。私は幸せな方。」

もしくは、

「あの人はあんなにも恵まれているのに、

一方私はこんなにも不幸せだ。」

他者と共に生きていく上で、

一度ならず二度、三度、

こうした感情になることは避けられない。

 

最近、「相対的な幸せ」が、

他者との比較よりも

「自分の想定する幸せの水準」

との比較によって規定されていると感じる。

 

この水準は、これまでの自分の環境

によって形成される。

この水準に、私は無意識のうちに

絶大な信頼を置いてしまっている。

 

だから、新たな形の幸せを

考えられなくなっているのではないか。

 

苦しさ

苦しい日々。

辛くて、終わりが、先が見えない日々。

そんな日々から救われたいけど、

あらゆるコンテンツに、苦しくなる種が

どれくらい埋め込まれているかわからない。

それが怖くて、気分転換のために

何かを摂取することができない。

コンテンツを摂取するには、

今の私はあまりにも脆すぎる。

誰かに会って、元気をもらうには、

今の私はあまりにも脆い。

 

歌を聴いて泣いてしまう。

歌で泣く私自身を見て、あなたを思い出す。

あくびをする私、

眼鏡をかける私。

私の全てが、あなたを思い出させる。

今までのあなたを愛しすぎた。

愛しすぎて、今までのあなたを失いたくない。

 

あなたのことを、ずっと考える。

あなたが夢に出てくるよ。

「もう、全部良くなったんだね、良かった。」

全部終わったんだって。

どんなに嬉しいか。

何回も嬉しくなって、

それが夢だとわかるたびに、

また苦しくなる。

夢を見て、夢から覚めるのが怖いね。

ごめんね。

 

どんな未来が待っているんだろう。

怖い。

怖い。

怖い。

嫌だ。嫌だよ。

嫌だよ。

お願い。

嫌だよ。

考えたくない。

嫌なことばかり考える。

準備しとかないとって。

ごめんね。

先のことを案じても仕方がないのは

百も承知なんだけど、

今の私が感じている苦しさは、

この先のことと切っても切り離せない。

不安。

不安だよね。

 

愛しています。

ずっと、見えない。

辛くて苦しい。

一筋の光が、現れては消え、現れては消える。

なんで。

これはいつまで続くの。

 

今まであまりにも恵まれすぎてきたから、

バランスを取らなきゃと思ってきた。

でも、こんな形は望んでいなかった。

一番苦しい。

いつまで、これが続くんだろう。

これは、乗り越えられるものなのか。

乗り越えるものなのか。

 

今まであった幸せが、ふと、急に失くなり

もう二度と手に入らないかもしれない。

そんなとき、過去を振り返ることが辛くて、

今までとは別の形の幸せを

幸せとして見てあげることが

どうしてもできない。

あの頃の幸せを諦められない。

別の形の幸せを、受け入れられない。

ごめんね。

あの頃を望んでごめん。

 

生きていてくれればそれでいいって言った。

その言葉を発したとき、それは本心だったよ。

心からそう思っていたよ。

でも、ごめん。

私は欲張りで、わがままで、

諦めが悪いまま生きてきちゃったよ。

また、あの幸せを、

まだ、あの幸せを、

手に入れないと、幸せになれない。

そう思っちゃうんだ。

ごめん。

ごめんね。

大好きだよ。

あなたがいてくれるだけで、

私は幸せなはずなのに

それだけで満たされるはずなのに

まだ、諦められなくてごめん。

それだけで満たされずに、もがいてごめん。

 

でも、私はまだ諦めたくないとも思う。

諦めないのはすごく苦しいけど、嫌だよ。

どっちの方がいいのかな。

私は、いつ諦めたらいいのかな。

これは諦めなのかな。

苦しい。辛い。

あなたが一番苦しくて辛いのに、

ごめんね。

 

私は、まだ、あの頃の幸せを

望んでいいのかな。

望んだ方がいいのかな。

別の形な幸せを、

幸せに入れてあげた方がいいのかな。

 

諦めることと受け入れることって、

何が違う?

 

あなたは、私の生涯の最愛の人です。

愛してくれてありがとう。

愛しています。

靴紐が結べない

5月 5日
朝、なぜか靴紐が結べなかった。昨日までそんなこと一回もなかったので、びっくりした。
右手と左手がうまく噛み合わなくて、頭の中がこんがらがる感覚だった。思えば今までは何も考えずとも手が勝手に動いていたので、いざできなくなったときに、これまでどうやって結んでいたのかを思い出すことができなかった。時間がなくバタバタしていたので、仕方なくVans のスリッポンで外出した。

5月 6日
今日は普通に靴紐を結べた。バタバタしていて、昨日靴紐を結べなかったことすら思い出す暇もなかった。駅のホームでいつものスニーカーを履いていることに気づき、靴紐を結べ たことがわかった。昨日はなんでできなかったのかがわからないほど自然にできた。

5月 7日
靴紐が結べなかった。一昨日と同じ感覚だった。今日は意識的に靴紐を結んだのだが、それがいけなかったのかもしれない。意識すると、できなかったときのことを思い出して焦って不安になるから。Vans のスリッポンの履き心地が意外といい。

5月 8日
また結べなかった。二日連続でできないと、このままずっとできないままだったらどうしようという気持ちでいっぱいになる。別に靴紐が結べなかったとしても、スリッポンはあるし、足はある訳だから、外出できるし歩けるし、なんの問題もない。私生活に影響を与える訳ではないから、そこまで気にする必要はないのかなと思った。

5月 9日
今日もだめだった。昨日はすぐ諦めてスリッポンを履いてしまったので、今日は時間にゆとりをもって朝の支度をした。焦らないように、ゆっくり結ぼうとしたけど、何度やってもできなかった。指に力が入らない。

5月 10日
今日は外出しなかった。溜めていた家事をして、ベッドでゴロゴロした。最近、靴紐のことばかりだったので、別のことを書きたい。中本さんが引っ越したらしい。前から騒音トラ ブルやら漏水やらで散々だと聞いていたので、引っ越すことができてよかった。今の家に不満がある訳ではないが、気分転換がてら引っ越したくなった。

5月 11日
やっぱり結べない。「意識してはいけない」と意識するとできなくなってしまうので、意識について考えずに、ただ靴紐を結ぼうとした。でも、できなかった。正直、今日靴紐が結べるかどうかは、靴紐を持った時点でわかる感覚がある。一瞬で自分の視点が遠くにいって、戻ってこないような感じがする。これができないからといって何かに困る訳ではない とはわかっているが、今まで当たり前にできていたことが突然できなくなると怖い。

5月 12日
YouTube の靴紐の結び方解説動画を観ながらやったらできた。コメント欄を見ると、みんなありがたがっていて、私以外にもこういう人がいるのかなと思うと気が楽になった。とりあえず解決策が見つかってよかった。しばらくはこれを観ながら結ぶ習慣をつけようと思う。

5月 13日
今日も動画を観ながら結んだ。普通に靴紐が結べるようになったことはありがたいが、そのために朝の支度を急いでやって、玄関で YouTube を開くのは面倒だ。2 倍速で再生しても動きが追いつかないので、そのままの速度で再生するしかない。また結べるようになるまでの辛抱だと思って頑張る。

5月 14日
動画を観ながら結んだ。YouTubeをわざわざ開くのは面倒だが、またあの結べない感覚を
味わうことへの恐怖と比べたらどうってことないと思う。

5月 15日
どうしても面倒で、動画を観ないでやろうとしたら、無理だった。またあの感覚を鮮明に
思い出すことになって後悔した。別に靴紐を結べなくても困らないのに、クソ真面目に取り組んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。一生スリッポンでも困らないし、最近は結ばなくていい靴紐もあるらしいから、それでいいのに。

5月 16日
スリッポンで外出した。靴紐のことに向き合うのをやめた罪悪感も少しあるけど、とにか
く楽なので、助かる。色も気に入っているし、歩きやすい。あのスニーカーも結構⻑く履いたし、そろそろお別れでもいいかもしれないと思った。

5月 17日
スリッポンで外出した。外出すると、街ゆく人々の足元を見てしまう。スニーカーを履い
ている人を見ると、「この人は今日の朝靴紐を結んできたんだな」と思う。そんなことはないとわかっているけど、スリッポンを履いていることで靴紐が結べないことがバレたらどうしようと考えてしまう。スリッポンを履いている人を見ると、この人も同じなのかなと考える。誰かにこのことを言ってみたいけど、怖い。

5月 18日
スリッポンで外出。段々この靴に愛着が湧いてきている。こいつは「僕にしときなよ」と
毎朝言ってくる。慰めてくれているように感じる。

5月 19日
結局、なんでもない能力が、自分のアイデンティティなんだと思う。他の人にはできない
こととか、価値のあることとか、そういう能力だけがアイデンティティだと思ってきたけど、 そういう訳ではないのかもしれない。

5月 20日
スリッポンを履いた。スリッポンを履けるということは、指で靴の踵を引っ張って靴の中
に足を入れることができるということを意味するんだ。玄関まで自分の力で歩くことができて、しゃがむことができる。たくさんの「できる」に支えられている。

5月 21日
一日中家にいた「靴紐 結べなくなった」で調べても、特に有益な情報は得られなかっ
た。病院に行くことでもないし、そんなことで悩んでいると言ったら馬鹿にされると思うし。 言ってみたいとも思う。

5月 22日
久しぶりに動画を観て、靴紐を結んだ。いつもの動画に初めてコメントをつけた。匿名で
はあるが、初めて靴紐が結べなくなったことを言った。それが何をどうしてくれる訳ではな  いが、少し楽になった気がする。

5月 23日
今日も動画を観て結んだ。コメントにいいねが2つ、ついていた。嬉しかった。

5月 24日
動画を観て靴紐を結んで、外出しようとしたが、今日の服装を考えるとスリッポンの方が
合っていると思い、スニーカーを脱いでスリッポンに履き替えた。梅雨が始まると靴を履くのも憂鬱になるだろうし、夏はビーサンばかりになるだろうから、今の時期に楽しみたい。

5月 25日
ABCマートに行った。何も買わなかった。うまく言えないが、今までとは違う心持ちで靴
を見ていた。今後買う靴には、毎朝、靴紐を自分の力で結べない姿を見せることになる。だから、こいつにだったら見せても構わないと思えるような靴を買いたい。

5月 26日
靴紐を自分で結べなくなってから3週間経った。他の日常は特に変わらない。靴紐が結べ
ないことが、どんどん当たり前のように感じられてくるのが怖い。本来はできなくて当たり前ではないのに、自分の中である種の諦めが生じることを受け入れられない。

5月 27日
今までずっと、自分の「できなさ」に目を背けて生きてきた。それは誰もがしていること
だと思う。「できない」を増やさないために、「やらない」を増やしてきた。でも、それによ って多くの「できる」を損失してきたんだと気づいた。

5月 28日
あの動画が削除された。びっくりした。他にも似たような動画はあるので、それを観なが
ら靴紐を結んだ。あの動画が投稿されたのは8 年前だったと記憶しているけど、なぜ今更削除されたのかがわからない。

5月 29日

 

 

 

 

5月 30日

 

 

 

 

5月 31日

 

 

 

 

 

ジャケットのボタン

ジャケットの一番上のボタンが、取れかけている。

もう何ヶ月もずっとこの状態だ。

家に裁縫道具はあるし、縫い直す時間だっていくらでもある。

それでも直さないのは、当然面倒だからといえばそうなのだが、それだけが理由ではない。

このボタンが、最後の力を振り絞ってそこに留まろうとしてくれている姿が愛おしいからだ。

こいつは、他の誰のためでもなく、私のためだけに、踏ん張ってくれる。

私がこのジャケットを着る度に、こいつは「またあの苦行を耐え抜かなければならないのか」と穴から覗かせた顔をしかめる。

一日の終わりに私がジャケットを脱ぐと、ずいぶんと長くなった首をもたげ、疲弊し切った様子を見せる。

私は、その様子がたまらなく愛おしくて、わざわざジャケットを着なくても良いような日にジャケットを着て、わざわざ閉めなくてもいいボタンを毎回閉める。

 


いつかこのボタンがとうとう取れてしまったとき、私は針と糸でこいつをジャケットに縫い付けたいと思えるのだろうか。

このボタンを除けば、ジャケットの状態はかなり良いし、デザインも気に入っている。使い勝手も良い。

でも、こいつは、またジャケットに縫い付けられることを望んでいるだろうか。

こいつのしゃんと前を向いた顔と、太く短くなった首を、私は愛おしいと思えるだろうか。

 


もし私がボタンが取れただけでこのジャケットを捨ててしまったら、ジャケットはどう思うだろうか。

自分は修復の手間すら惜しまれるほどの存在だったのだ、愛されてなどいなかったのだと思うだろうか。

私がこのジャケットを気に入っているのは、このボタンが取れかけているからなのだろうか。

 


私はこのジャケットを、ボタンが取れかけるまで着続けた。

このボタンが取れかけるまで、このボタンの存在なんて、意識に上らなかった。

ただ、このジャケットを気に入っていたから何度も着た。

私は、このジャケットを気に入っていた。

今もこのジャケットを気に入っている。

期間限定

期間限定は、魅力的だ。

鮮やかな風貌の、一味違う彼らは、特別感、非日常を武器に、私を強く誘惑してくる。

 


「期間」を明記しない期間限定は、罪深い。

その期間限定が発表されたその日から、焦燥感に苛まれなければならない。その期間限定のことしか考えられなくさせ、それにありつけるかありつけないかという価値判断を中心に生活することを強いる。

 


期間限定は、私の期待をいつだって裏切る。

必要以上にハードルを上げた私、そして定番を選ばなかった私が悪いのだと言わんばかりに、及第点だけを叩き出し続ける。

 


二度と騙されるものか。結局、定番が一番なのだ。消費行動を促進するためだけの、姑息で安直な手になど乗るものか。何度も自分に言い聞かせるも、次の新たな期間限定に出会ったときにはそんなことは忘れ去っている。

 


期間限定は美しい。

自分が定番の仲間入りできないことに対し、微塵も劣等感を感じていない。むしろ特別な存在としてチヤホヤされることに快感を感じ、自分は時の人なのだと、定番を嘲るように、風の様に現れ、去っていく。

 


私がもしも期間限定だったら、まずは定番の面々の顔を立てるところから始めるだろう。下手に出ることで、あくまで自分の価値は一時的なものであることを自覚していることを示す。それにより、定番の価値に対し、自分は理解ある者だという印象を与えることを目指すだろう。

 


しかし、昨今の期間限定ときたら、話題性という価値基準に毒されすぎではないだろうか。定番を自分たちの引き立て役、すなわち「特別感を演出するための比較対象」として扱うその姿勢を見ると、彼らは自分があくまでも起爆剤という立場にあることを完全に忘れているように思われる。

 


期間限定に対し、喝を入れることができるのは、「定番」たちしかいない。

定番たちが、長年多くの人々に愛されることがいかに難しいのかを、期間限定に対し説くべきではないか。

もしくは、過去の期間限定たちが、代々教訓を引き継いでいくべきなのではないか。

話題をかっさらい、最大瞬間風速を記録することもたしかに認められて然るべき価値である。しかし、だからと言って、定番に対し傲慢な態度を取ることが許されるわけではない、と。

 


期間限定は何もわかっていないのだ。定番入りすることの難しさも、定番による安定した利益のおかげで今の自分が存在できていることも。

期間限定の美しさは、その無垢さによるものだろうか。

渋谷

渋谷が嫌いだ。

店も、広告も、人も、何もかもが、人々の視線を奪い合う。

視線をかき集めるためならなんでもする、とでも言わんばかりの必死さは、清々しくすらある。

 

視線を集めることに全力になることを、恥ずかしいと思う自分が嫌いだ。

昔からそうだった。学生時代の楽しみなんて、目立つ同級生の言動を仲間内で馬鹿にすることくらいだった。そんな自分は、そいつらよりも達観しているんだと、愉悦に浸っていた。その優越感のくだらなさに気づいたときには、自分の相手をしてくれる人はいなくなっていた。本当は、自分は誰よりも注目されたかった。誰よりも、一目を置かれる存在になりたいと思っていた。でも、それに気づかれたくなかった。目立たずとも視線を集めることこそが美徳だと思っていた。「目立ちたがり屋」と笑われることが怖いだけなのに、その美徳に縋ることで、特に取り柄のない自分に目を瞑っていた。

 

渋谷は、そんな自分の存在になど見向きもせずに、「目立ちたがり屋」と笑われることを恐れる素振りなど微塵も見せずに、今日も派手やかな彩色に身を包む。

 

昨日、久しぶりに中学の頃の同級生と道端でばったり会った。あっちが先に気づいて、声をかけてきた。特に仲が良かったわけでもないが、10年ぶりの再会だったので、近況を互いに共有しているだけで案外盛り上がった。そいつは、今でも同級生の数人とやり取りをしているらしかった。ふと気になって、そういえばあいつらはどうしてるのかと、いつも目立っていた奴らのことを聞いた。そいつらとは進学した高校も違ったので、全くと言っていいほど何も知らなかった。そいつは、あー、あいつらねー、連絡取ってないからわかんないんだよね、と言った。その答えを聞いて、なぜかホッとした。なぜホッとしたのかはわかっていた。ひとしきり会話を終え、また集まろうと言って別れを告げた後、特に当てもなく渋谷に向かった。

 

渋谷は、相変わらずうるさかった。

うるさくて、眩しかった。

今日も、他人の作った曲を歌い上げる人たちが路上に立ち並び、静かな人集りが彼らを囲う。

渋谷は、何も教えてくれない。

 

渋谷が嫌いな自分が嫌いだ。

自分は、渋谷にはなれない。

本当は渋谷になりたくてもなれないだけなのに、それを認めることができないから、嫌いになるしかなかった。

 

今日も伏し目がちに、道玄坂を下る。