脳内たおや化

真面目な話も、しょうもない話もかきます。脳内のたおや化を目指します。

ジャケットのボタン

ジャケットの一番上のボタンが、取れかけている。

もう何ヶ月もずっとこの状態だ。

家に裁縫道具はあるし、縫い直す時間だっていくらでもある。

それでも直さないのは、当然面倒だからといえばそうなのだが、それだけが理由ではない。

このボタンが、最後の力を振り絞ってそこに留まろうとしてくれている姿が愛おしいからだ。

こいつは、他の誰のためでもなく、私のためだけに、踏ん張ってくれる。

私がこのジャケットを着る度に、こいつは「またあの苦行を耐え抜かなければならないのか」と穴から覗かせた顔をしかめる。

一日の終わりに私がジャケットを脱ぐと、ずいぶんと長くなった首をもたげ、疲弊し切った様子を見せる。

私は、その様子がたまらなく愛おしくて、わざわざジャケットを着なくても良いような日にジャケットを着て、わざわざ閉めなくてもいいボタンを毎回閉める。

 


いつかこのボタンがとうとう取れてしまったとき、私は針と糸でこいつをジャケットに縫い付けたいと思えるのだろうか。

このボタンを除けば、ジャケットの状態はかなり良いし、デザインも気に入っている。使い勝手も良い。

でも、こいつは、またジャケットに縫い付けられることを望んでいるだろうか。

こいつのしゃんと前を向いた顔と、太く短くなった首を、私は愛おしいと思えるだろうか。

 


もし私がボタンが取れただけでこのジャケットを捨ててしまったら、ジャケットはどう思うだろうか。

自分は修復の手間すら惜しまれるほどの存在だったのだ、愛されてなどいなかったのだと思うだろうか。

私がこのジャケットを気に入っているのは、このボタンが取れかけているからなのだろうか。

 


私はこのジャケットを、ボタンが取れかけるまで着続けた。

このボタンが取れかけるまで、このボタンの存在なんて、意識に上らなかった。

ただ、このジャケットを気に入っていたから何度も着た。

私は、このジャケットを気に入っていた。

今もこのジャケットを気に入っている。

期間限定

期間限定は、魅力的だ。

鮮やかな風貌の、一味違う彼らは、特別感、非日常を武器に、私を強く誘惑してくる。

 


「期間」を明記しない期間限定は、罪深い。

その期間限定が発表されたその日から、焦燥感に苛まれなければならない。その期間限定のことしか考えられなくさせ、それにありつけるかありつけないかという価値判断を中心に生活することを強いる。

 


期間限定は、私の期待をいつだって裏切る。

必要以上にハードルを上げた私、そして定番を選ばなかった私が悪いのだと言わんばかりに、及第点だけを叩き出し続ける。

 


二度と騙されるものか。結局、定番が一番なのだ。消費行動を促進するためだけの、姑息で安直な手になど乗るものか。何度も自分に言い聞かせるも、次の新たな期間限定に出会ったときにはそんなことは忘れ去っている。

 


期間限定は美しい。

自分が定番の仲間入りできないことに対し、微塵も劣等感を感じていない。むしろ特別な存在としてチヤホヤされることに快感を感じ、自分は時の人なのだと、定番を嘲るように、風の様に現れ、去っていく。

 


私がもしも期間限定だったら、まずは定番の面々の顔を立てるところから始めるだろう。下手に出ることで、あくまで自分の価値は一時的なものであることを自覚していることを示す。それにより、定番の価値に対し、自分は理解ある者だという印象を与えることを目指すだろう。

 


しかし、昨今の期間限定ときたら、話題性という価値基準に毒されすぎではないだろうか。定番を自分たちの引き立て役、すなわち「特別感を演出するための比較対象」として扱うその姿勢を見ると、彼らは自分があくまでも起爆剤という立場にあることを完全に忘れているように思われる。

 


期間限定に対し、喝を入れることができるのは、「定番」たちしかいない。

定番たちが、長年多くの人々に愛されることがいかに難しいのかを、期間限定に対し説くべきではないか。

もしくは、過去の期間限定たちが、代々教訓を引き継いでいくべきなのではないか。

話題をかっさらい、最大瞬間風速を記録することもたしかに認められて然るべき価値である。しかし、だからと言って、定番に対し傲慢な態度を取ることが許されるわけではない、と。

 


期間限定は何もわかっていないのだ。定番入りすることの難しさも、定番による安定した利益のおかげで今の自分が存在できていることも。

期間限定の美しさは、その無垢さによるものだろうか。

渋谷

渋谷が嫌いだ。

店も、広告も、人も、何もかもが、人々の視線を奪い合う。

視線をかき集めるためならなんでもする、とでも言わんばかりの必死さは、清々しくすらある。

 

視線を集めることに全力になることを、恥ずかしいと思う自分が嫌いだ。

昔からそうだった。学生時代の楽しみなんて、目立つ同級生の言動を仲間内で馬鹿にすることくらいだった。そんな自分は、そいつらよりも達観しているんだと、愉悦に浸っていた。その優越感のくだらなさに気づいたときには、自分の相手をしてくれる人はいなくなっていた。本当は、自分は誰よりも注目されたかった。誰よりも、一目を置かれる存在になりたいと思っていた。でも、それに気づかれたくなかった。目立たずとも視線を集めることこそが美徳だと思っていた。「目立ちたがり屋」と笑われることが怖いだけなのに、その美徳に縋ることで、特に取り柄のない自分に目を瞑っていた。

 

渋谷は、そんな自分の存在になど見向きもせずに、「目立ちたがり屋」と笑われることを恐れる素振りなど微塵も見せずに、今日も派手やかな彩色に身を包む。

 

昨日、久しぶりに中学の頃の同級生と道端でばったり会った。あっちが先に気づいて、声をかけてきた。特に仲が良かったわけでもないが、10年ぶりの再会だったので、近況を互いに共有しているだけで案外盛り上がった。そいつは、今でも同級生の数人とやり取りをしているらしかった。ふと気になって、そういえばあいつらはどうしてるのかと、いつも目立っていた奴らのことを聞いた。そいつらとは進学した高校も違ったので、全くと言っていいほど何も知らなかった。そいつは、あー、あいつらねー、連絡取ってないからわかんないんだよね、と言った。その答えを聞いて、なぜかホッとした。なぜホッとしたのかはわかっていた。ひとしきり会話を終え、また集まろうと言って別れを告げた後、特に当てもなく渋谷に向かった。

 

渋谷は、相変わらずうるさかった。

うるさくて、眩しかった。

今日も、他人の作った曲を歌い上げる人たちが路上に立ち並び、静かな人集りが彼らを囲う。

渋谷は、何も教えてくれない。

 

渋谷が嫌いな自分が嫌いだ。

自分は、渋谷にはなれない。

本当は渋谷になりたくてもなれないだけなのに、それを認めることができないから、嫌いになるしかなかった。

 

今日も伏し目がちに、道玄坂を下る。

コウノドリ

来年度の「授かり」志望者の募集締め切りが、とうとう一週間後に迫った。期日から逆算して準備することも、大事な話を切り出すことも苦手な私らしいタイムスケジュールだろう。こうなることはわかっていた。

 

圭人は未だに「授かり」の件に関して自分から話そうとしない。彼もまた、私と同じく切り出し下手な性格だ。きっと私が痺れを切らして話を切り出してくれるだろうと甘えているのだろう。こういう大事な話をしなければならないとき、いつも切り出すのは私の方だった。今回こそは、私からは話すまいと思っていたけど、降参するしかないようだ。

 

夕食中、テレビを観ながらたわいもない話題を私に投げかける圭人に、軽いトーンで切り出す。大事なことを重い空気で話しても、大抵いい結果にはならない。

 

「そういえば、コウノドリの来年度の締め切り、来週末みたいだけど、どうしよっか。」

どうせ彼は私がそろそろ切り出すとわかっていたんだろう。わかっていながらも、彼は唐突だねと言わんばかりのリアクションを見せる。深刻な雰囲気をつくりたくない彼の常套手段だ。その気遣いがうっとうしいと感じることまあるが、しばしば助けられているのもまた事実だ。

 

「そうだねぇ。どうしよっか。応募するだけしてみる?」

「そうね。私は来月で仕事ひと段落しそうだから、去年より時間の融通は利くと思うけど、圭人は今年と来年どんな感じ?」

「来年はまだちょっと読めないけど、今年授かり予定の先輩も多いから、それなりに理解してもらえると思う。」

「なるほど、それなら応募だけとりあえずしとこうか。明日にでも役所行く?」

「うん、そうしようか。書類印刷しとくね。」

「うん、ありがとう。」

 

あっさりとしたやりとりが、私たち二人の今後の舵を切る。

 

収入、年齢、経歴、健康状態は、親として問題ないはずだ。あとはどれだけ筆記と面接の対策に時間を割けるか。高くつくが、予備校に行くべきなんだろうか。周りの友人は、ほとんどが予備校で対策をしたと言っていた。でも、そこまで本気の姿勢を見せたら、圭人は怖気づくのではないだろうか。

 

私は、子どもが欲しいと強く思ったことはない。中学で、赤ちゃんをどのようにして授かるかを学んだとき、あまりのシステマティックさにショックを受けた。それ以来、親になることは極めて事務的なものなのだと考えるようになった。

 

父と母は、私が幼い頃、「コウノドリさんが梨沙を運んできてくれたんだよ。」と話していた。そのときの笑顔は、子どもを授かった幸福感というよりは、ゲームをクリアしたときの達成感に似た喜びによるものだったのだろうと後から思った。コウノドリによる厳しい書類審査、筆記、面接試験を突破した者のみに与えられる「親」という称号には、自分のこれまでの人生全てを肯定してくれる力がある。私は、その称号にも、子どもという存在そのものにも、まだ魅力を感じていない。それでも「授かり」に応募してみようと思ってしまうのは、なぜなのだろう。私もどこかで、自分の人生を丸ごと肯定されたいと願っているのだろうか。そんなはしたない欲望を満たすための道具として子どもを利用していいのだろうか。

 

圭人はどう考えているんだろう。何をどう聞いて、何をどう伝えればいいのだろう。

マスク、みんな着けてるから着ける

「みんなが着けているから着けている」っていうのは、そんなにダメなんだろうか

 

「みんなが着けているからって着けるのは、自分で考えていない証拠だ!」って

同調圧力に屈している!」って

 

そんなこと言われても、みんな着けてるから着けるっていうのも立派な理由じゃないですか?と思う

 

私は、例えマスクが科学的に無意味であるとしても、みんながマスクを着けていたらマスクを着けるし、それに対して居心地の悪さを覚えることはないとだろうなと思う

 

それはまるで「中学に入ったらみんな鉛筆じゃなくシャーペン使うようになるからシャーペン使う」のと同じだ

私は鉛筆好きだけど、みんながシャーペンを使うことにも、自分が周りに合わせてシャーペンを使うようになることにも居心地の悪さは感じない

 

みんなとある程度一緒であることは、共同体の中で生きていく上で大事なことだと思う

不快な思いをする人がいるから服を着たくなくても服を着るべきだし、みんな服着てねっていう法律がある

みんな同じ言語を喋るから意思疎通がしやすい

 

同じであることは便利だ

みんなで生きていくためには必ずいくつかの共通項が必要だ

だから、「みんなこうだから私もこうする」っていうのは社会的動物として備わっていて当然かなと思うし、立派な理由だと思う

 

 

 

ところで、最近の流行りでよくある、何にでも個性を求められるというのはかなり疲れる(元々特別なオンリーワンなんて言うけど、自分を構成する要素においてオンリーワンであることなんてどれをとっても一つもないし、あくまで我々は集合体としてオンリーワンなのであって、かといってその集合体としてオンリーワンであることに価値がある人なんてほんの一握りである、という逆厨二病を発症しているのは一旦置いておいて)

 

みんなと一緒でいる方が居心地がいいのは私だけじゃないのではないだろうか

わざわざ目立ったことをするほうが疲れるし、変に尖っている方が恥ずかしいと思ってしまう

周りと同じであることは、無個性であるとか言われるけど、それと引き換えに信頼を得られる

この人は変な人じゃない、最低限まともな人だ、と判断してもらえやすい

みんなをマネするだけでそう思ってもらえるのは、ヤバい人と思われたくない私にとってはかなりありがたい

 

 

でも、こういう風に、個性に対して省エネでいることに、ちょっとした劣等感を覚えることもある

 

例え自分の意見が周りの大多数と違っても、その多数派に合わせることが別に苦ではない

 

そんな私は、「みんなと同じは嫌だ!」と強く思える人や、多数派に意見を合わせることに居心地の悪さを感じられる人が羨ましい

 

話を戻すが、もちろん選択的にマスクを着けない人は、「みんなと同じは嫌だから」着けないのではない

全員マスクを着けるべきだというのは間違っている!またはマスクなんて意味がない!またはコロナなんて嘘だ!と思って着けていないのだ

 

私はマスクは感染対策に有効だと思うし感染対策をするべきだと思う

よってマスクを着けないのは良くないと思うから(小並感)マスクを着けないことに関しては一切同意できないけど、それは一旦置いておいて、こんなにたくさんの人がマスクをしているのにマスクをしないって本当にすごいなと思う

本当に勇気があると思う

 

「マスクをつけるべきではない」と仮に判断したとしても、私にはそんな勇気はない

「マスクつけたくない」と思いながら毎日マスクを着けると思う

だって、みんな着けてるし

私は、「マスクをつけない人」と思われたくない

 

 

日本人のマスク着用率が高いのは、同調圧力が働きやすいからだ、とよく言う

 

それは確かだと思う

 

同調圧力は、言葉の響きが悪い

個性を潰す悪き日本の代表的な文化として取り沙汰されやすい

 

 

日本で育ったほとんどの人が子供のときから幾度となく同調圧力を感じてきただろう

私は、学校生活において、みんなとある程度同じでいることは共同体で生きていく上で必要不可欠だから、ある程度周りに合わせて生きてきた

 

周りの顔色を見ながら生活するのは割と大変だが、私はそれに関して自分が同調圧力に「屈している」と感じたことも「居心地が悪い」と感じたこともない

 

そうした方が生きやすいし、同調圧力って共同体が共同体であるためにそれなりに必要だからみんなと同じであることを選んできた

 

それによって自分の個性が殺されたとも思わない(自分に個性などないと思っていることは置いておいて、アイデンティティが傷つけられたと感じたことがないという意味で)

 

同調圧力に声をあげようと決意するほどの個性が自分にあったら、これは同調圧力だ!と言える勇気と行動力があったら、どれだけかっこいいだろう

 

みんなと同じであることによって抑制されていると体感できるほど大きな個性は、私にはない

「学校は窮屈だ」と感じたことも、「日本は私には狭すぎる」と感じたこともない

 

はちきれんばかりの個性を持って生まれてきた人たちは、それなりに辛い思いをしてきたんだろうが、オンリーワンであると自ずから強く感じられることが羨ましい

 

繰り返すが、マスクをしない人は個性的でありたいからマスクをしないんだと思っているわけではない

 

ただ、日本で、自分で選択してマスクを着けないでいられる人たちは、本当に勇気があるなと思うのだ

嫌味とかじゃなく、本当に

 

「みんなそうだからそうする」が苦じゃない私からすれば、それに苦痛を感じる人、その苦痛に対して声をあげられる人は、すごくかっこよく映る

 

マスクを選択的に着けないでいられる人、その肝っ玉だけ分けてほしい

 

 

 

本当に、私の長文のブログはいつも論点がずれる

 

みんなに合わせることは良くないと思われがちだし、行き過ぎると辛いだろう

でも、この「みんなそうだからそうする」という理由も、私は大切にしたいこれは、単なる思考停止と断罪されるべきではないと思う

どこにいっても個性を求められるのはしんどいし、みんなと同じであることも必要であることは忘れたくない

一方で堂々と人と違っていられる人の肝っ玉が羨ましくもある

 

私は今流行りの「個性が個性のまま生かされる共同体」と同じくらい「みんなと同じが楽」っていう感覚も大切にして良いと思う

 

以上!!

 

大好きな人が陰謀論を熱弁する妄想

どうしよう

私は大好きな人に陰謀論を熱弁されたら、その人を大好きなままでいられる自信がない

そして、それを機にその人から距離を置こうとするであろう自分に耐えられない

 

別に何があったわけではない

ただの全力の杞憂だ

新型コロナウイルスの流行を機に、この類のことを考えるようになった

 

「ワクチンは毒」「マスクは意味ない」「コロナはデマ」

何度Twitterでこの手のツイートを目にしたかわからない

目にした、というか自分で目にしにいった

怖いもの見たさだ

彼らは真剣に、私たちに訴える

洗脳されている、目を覚まして、と

こっちのセリフだよ、と言いたくなるが、あっちからしてもあっちのセリフなわけで

違う世界線で生きていることをまざまざと見せつけられる

 

私は医学の知識なんてまるでない(生物が嫌だったから物理を選択した)

でも、インターネットでわんさか出てくる「その手」の情報よりも、新聞やテレビの情報の方が信憑性が高いと思うし、Twitterで出回ってる統計データのガバガバさはなかなかに目に余る

胡散臭いネット民がそれっぽい言葉をそれっぽく並べて、ホイホイたくさんの人を釣っている様子は、本当に見ていて苦しくなる

でも、あちら側からすれば、私たちの方が見るに耐えないのだろうなと思う

気持ち悪い奴らだと、心底軽蔑しているだろう

情報に踊らされて、操られている愚かな人々だと思われている

 

前澤社長が宇宙に行った

彼のもとにも、「その手」の人々が集まっているらしい

宇宙なんて嘘っていう説もあるそうですね

 

たしかに、天動説も地動説も、宇宙に行ったことがない私からすればどっちが本当なのかなんてわからない てか、宇宙に行っても多分わからん

教科書で習ったし、宇宙の映像も見た

地球が青いって言ったんでしょ

でも、全部嘘かもしれないって

人類、月に行ったことないかもしれないんでしょ

全部捏造って

地球が丸いっていうのも捏造ですか?

 

私の周りにはそういう別の世界線を生きる人はいない

でも、ふと考える

大好きな人に「目を覚まして!」と言われたら、私は一体どうすればいいんだろう

全部嘘だと言われて、よくわからない単語をつらつらと並べられて、「自分で調べたらわかるんだよ」って

 

私が必死で集めた論文からデータを引っ張ってきて彼らに説明しても、無駄なんだろうなと思う

どんなに情報を並べても彼らには何の意味も持たない

あっちの世界で全て完結しているのだから、こっちの世界のことを話してもそれはあちらの世界では無駄なピースなんだ

 

私たちは完全に情報を精査することなんてできない

「人類は月になど行っていない!あの映像はデタラメだ!」という太郎くんに、月に行ったことのない私が何を言える?

 

あぁ、本当に私は、太郎くんが陰謀論を唱えるから、という理由だけで太郎くんのことを嫌いになってしまうのか

私の太郎くんへの思いはそんな程度のものだったのか

彼の「目を覚まして!」の一言で、あの日の帰り道に食べたアイスクリームの味も、あの日のくだらない2時間の泣き笑いも、全部消え去ってしまうのか

彼が陰謀論を信じることそのものだけが問題なのではない

彼が陰謀論を唱えながら、内心で私を「騙されている愚かな人」だと平気で考えていることに私は絶望するのである

彼は、彼が内心では私を見下している、など微塵も思っていないだろう

太郎は「真実を知らない人」を、洗脳から解放してあげたい、救いたいと本気で思っている

なんて健気なんだ

あと何人の人がそんな正義感を元に行動できるだろうか

私だったらそんなことしない

わざわざ手を差し伸べたりなんか絶対にしない

可哀想な人たちだなぁと、見下し、見捨てるだろう

でも、太郎はそんなことは決してしない

私を「真実を教えるに値する人」「騙されたままでいてほしくない人」と思ってくれているのだ

ありがとう

でも私の目に映る彼は、どこからどう見ても彼と私の「真実の伝道師」と「無知の愚民」という構図を楽しんでいる

そして、そのように捉えてしまう自分に耐えられない

彼に素直にありがとうと言い、私も素直に「真実」を知ることができたらなんて幸せだろう

私は彼を軽蔑し、私も彼を軽蔑し、一生分かり合えないと距離を置くより遥かに幸せだろう

私は、本当に太郎と相容れないのだろうか

本当にもう二度と、彼とはパピコを分け合えないのであろうか

冷凍庫に、半年前に発売されたピスタチオ味のパピコが、まだ眠っている

 

 

 

 

※全て妄想です

 

 

 

「普通に考えたら」の便利さよ

自分の悩みは自分で解決できるのか

最近、自分の悩みを自分で解決できるようになったような気がします。

 

例えば、〇〇が〇〇で嫌だなーとか、イライラするなー、落ち込むなーってなったら、それはこう思っていることが要因になっているから、そうじゃなくこう考えることによってそのモヤモヤは解決できるな、みたいな。

 

もちろん理由のない嫌悪感に悩まされることや、精神的・肉体的疲労による無気力感に勝てなくて辛いときもありますけど。

 

今思ったけど、一文あたりの文字数が多くなるときって大抵考えすぎてたり疲れてたりするな。

 

悩みを解決、というか、ある程度自分の中で発想の転換とかができるようになった気がします。

今の状況を客観的に見つめ直して、よく考えたら普通にこうじゃん、とか、てかそもそもこうだな、とか。

自分の頭の中にない、手の届かない発想ももちろんあるとは思うけど、自己完結的にモヤモヤから脱却することはある程度できるようになった感じがする。

 

でも、なんかそれ、ほんとに根本的な解決になっとるんか?とも思います。

たしかに誰かに八つ当たりしたり、抱え込んで病んでしまったりするよりはいいと思うんですけど、なんか、自分の悩みを自分で解決することによって自分の機嫌をとることにはならない感じがして。

わかりますかねなんか、この感じ。

解決はするけど、別に機嫌が治るわけではなくて。

 

やっぱり人に話してこそ、アウトプットしてこそ、ようやくモヤモヤって晴れるよなと思います。

 

なんか、解決した気になって、でも実は自分の気分は下がったままになっていることに気づけないのは怖い。

私は弱いので、これからも周りの人を頼って生きていきたいです。

自分も頼ってもらえたら自分なりに頑張りたいです。

 

おわり