脳内たおや化

真面目な話も、しょうもない話もかきます。脳内のたおや化を目指します。

期間限定

期間限定は、魅力的だ。

鮮やかな風貌の、一味違う彼らは、特別感、非日常を武器に、私を強く誘惑してくる。

 


「期間」を明記しない期間限定は、罪深い。

その期間限定が発表されたその日から、焦燥感に苛まれなければならない。その期間限定のことしか考えられなくさせ、それにありつけるかありつけないかという価値判断を中心に生活することを強いる。

 


期間限定は、私の期待をいつだって裏切る。

必要以上にハードルを上げた私、そして定番を選ばなかった私が悪いのだと言わんばかりに、及第点だけを叩き出し続ける。

 


二度と騙されるものか。結局、定番が一番なのだ。消費行動を促進するためだけの、姑息で安直な手になど乗るものか。何度も自分に言い聞かせるも、次の新たな期間限定に出会ったときにはそんなことは忘れ去っている。

 


期間限定は美しい。

自分が定番の仲間入りできないことに対し、微塵も劣等感を感じていない。むしろ特別な存在としてチヤホヤされることに快感を感じ、自分は時の人なのだと、定番を嘲るように、風の様に現れ、去っていく。

 


私がもしも期間限定だったら、まずは定番の面々の顔を立てるところから始めるだろう。下手に出ることで、あくまで自分の価値は一時的なものであることを自覚していることを示す。それにより、定番の価値に対し、自分は理解ある者だという印象を与えることを目指すだろう。

 


しかし、昨今の期間限定ときたら、話題性という価値基準に毒されすぎではないだろうか。定番を自分たちの引き立て役、すなわち「特別感を演出するための比較対象」として扱うその姿勢を見ると、彼らは自分があくまでも起爆剤という立場にあることを完全に忘れているように思われる。

 


期間限定に対し、喝を入れることができるのは、「定番」たちしかいない。

定番たちが、長年多くの人々に愛されることがいかに難しいのかを、期間限定に対し説くべきではないか。

もしくは、過去の期間限定たちが、代々教訓を引き継いでいくべきなのではないか。

話題をかっさらい、最大瞬間風速を記録することもたしかに認められて然るべき価値である。しかし、だからと言って、定番に対し傲慢な態度を取ることが許されるわけではない、と。

 


期間限定は何もわかっていないのだ。定番入りすることの難しさも、定番による安定した利益のおかげで今の自分が存在できていることも。

期間限定の美しさは、その無垢さによるものだろうか。